僕がフリーランスエンジニアで月収40~50万円を稼ぐようになるまで1(~大学時代まで)

過去と比べてフリーランスエンジニアである今の自分は一番お金を稼げているし、労働時間も月130時間にしている。珍しいケースだけど、今は特に拘束時間は無く、毎月定額で40万円を貰っている。消費税も貰えて、かつ1年の売り上げが1000万円を超えない場合、その消費税を納めなくていいのでそのままインマイポケットしていい。

僕がどのようにしてフリーランスエンジニアになったかを紹介することが、読者にとって結構メリットかな(?)と思い、この記事を書こうと思う。

やっと手に入れた僕の人権とでも言おうか(フリーでも案件によるが)。時代のせいも十分にあるが、正社員時代やシステム会社での契約社員時代は人権が無かった。システム会社では、同じ案件に参加しているパートナー会社の人と「基本的人権の尊重って何?」っていうのを、少し皮肉混じりに、そこそこ真剣に話した。

さて、少しずつ話していこうか・・

小学校時代は、勉強は出来る方だった。母がそれに気づいたのか、塾に行かないかと言われ、小学校の4年生くらいから家の近くにある塾に通い出した。割と近いところに私立中学校があって、その学校の系列の塾だったので、友達と一緒に受験して、私立の中学校に入学した。兄が一人いて4人家族、そこまで裕福ではなかったが、父親は上場企業の社員で、母は専業主婦だった。家族の判断としては、僕たちは「中の下」だった。まぁ中流ってやつね。

中高一貫校だったのでそのままエスカレートで高校に進学して、高校3年の時に私立文系大学コースに入った。それまでは知らなかったけど、私立大学は「英語」「国語」「歴史(世界史を選択)」のたった3教科だけ勉強すればよく、数学が無いのが嬉しかったのと、英語が得意だったので、かなり頑張って勉強した。関西学院大学の文学部に合格した。商学部・経済学部・法学部・社会学部にも合格していたが女の子が多いという理由と、当時は英語教師になりたかったので文学部を選んだ。これが間違いだったけど。

僕が大学に入学したのは1998年、ちょうどウィンドウズ98が発売された年で、日本でパソコンとかインターネットが一気に普及した年でもある。入学時は大学のパソコンは全てマッキントッシュだった。1回生の前期にPCの授業を受けた僕はマッキントッシュを触っていた。今考えると笑える・・。そして1回生の後期からは一斉にPCがマックからウィンドウズPCに変更された。

大学にはPC教室があって、自由にインターネットに繋がったパソコンを使うことができた。そこで僕はブラインドタッチを覚えて、ひたすらエロ画像をものすごい時間をかけて閲覧して、フリーズさせてしまって、解決策が分からず、そのままこっそり退席した。

大学4回生くらいの事、PCオタクの友達がネット上からフォトショップなどの有料ソフトをダウンロードしては、CD-ROMに焼くという作業を繰り返していた。当時は「warez」と言って、音楽やらソフトやらの違法アップロード、ダウンロードが横行していた。その友達が「Flash探して、落としてーや」って言われた。その時は「Flash?なんじゃそれ。」という感じだった。Flashはマクロメディア(後にアドビに買収される)が販売している有料のアニメーションソフトだった。お絵描きしてそれを動かせるだけではなく、ActionScriptという簡単なプログラミング言語が使えた。それを使ってお絵描きしたものをプログラミングで動かすことが出来た。僕はお絵描きやアニメには能力の無さを感じた一方で、ActionScriptの魅力に取りつかれた。

そのころはFlash Player全盛の頃で、2ちゃんねるにたくさんの絵師達が面白FlashアニメとかFlashゲームを公開していた。特に中村勇吾という人のActionScriptを駆使したインタラクティブな作品に衝撃を受けた。

同時に、HTMLやCSSを使ってYahoo!ジオシティーズに無料ホームページスペースにホームページをアップしたりした。そのころはDreamweaverを使っていた。

大学の授業にも出ず、単位がヤバくなったので3回生で下宿したが、結局1年留年して、なんとか卒業した。教職の道を目指していたけど、ちょうど制度が新しく変更になった時期で、半年何も教職の授業を履修しなかった僕は、新制度に移行しないといけなくなって、すごく嫌でトラウマになった教育実習が2週間から1ヵ月になったのでプラス2週間行かなくてはいけなくなって、それが嫌過ぎて教師の道を諦めることにした。